ゴンと高野山体験プロジェクト〜

映画紹介<かかしの旅>『夏の日のサンクチュアリ-』

Nov 05 - 2014

夏の日のSanctuary(聖域)、いじめ問題への視線 - 映画『かかしの旅』 鑑賞の手引き

►1.根深い“いじめ”という現象
►2.あまりに凄惨な“いじめ”の現実
  - でもこの映画には、いじめを克服していく一縷の希望が描かれている
►3.この映画が訴える1番目のメッセ-ジ 
   - 人が生きる現実は、1つではない。どうにもならなくなったら、逃げていいんだ!
►4.この映画から読み取れる2番目のメッセ-ジ
   - 互いに傷つけず、生かしあう人間関係の中で、“癒し”と、生きる力の取り戻しの奇跡が始まる。
►5.この映画が訴える3番目のメッセ-ジ
   - 癒され、いのちを回復した子供たちが、豊かな自然の中で共に働くとき、日常生活に戻る意欲が蘇ってくる。
►6.この映画の鑑賞をお勧めしたい方々


 -厳しい“いじめ”の現実から逃れて、奇跡的に生まれたサンクチュアリ-(聖域)。そこに身を置く子供たちが、やがて“いきる力”を取り戻していくために、またいのちを育む日常を回復していくために、聖なる夏休みを開始する。

   『先生、うまく言えないけど、この夏をなんとか乗り切ったら、ぼくは戻れそうな気がします。
それが、学校なのか家なのかわからないけど、どこかにきっちりと足を下ろすことが出来るんじゃないか、
そんな気がして-----。』  

1.根深い“いじめ”という現象

   人は、より楽しく、より豊かに生きていくために、お互い同士支えあい、家族や社会をつくっていきます。しかし同時にまた人は、自分のエゴのために、他人の幸せや生活を踏みにじっていく存在でもあるのです。時として自分でも気づかないままに。
   人と人とのつながりが希薄になる時、人は誰かをスケ-プゴ-ト(犠牲)にして、集団としてのまとまりを取り戻そうとします。そしてそこで、満たされない自分のエゴの不満や鬱憤、そして孤独に取り残されそうになる不安を、そのスケ-プゴ-トにぶつけて、自分の自我の安定と他者との結びつきを保っていこうとします。それが大きくなってくると、ある社会集団や特定の民族、時によっては他の国が、このスケ-プゴ-トの対象となっていきます。
   しかし、こうして形づくられる人と人との結びつきは、けっして人を自由にし、喜びをもって生かしあうものとはなりません。“いじめ”が横行しているということは、それだけ社会が不健康になっている証拠でしょう。世界の先進国として繁栄を謳歌する日本ではありますが、じつはその社会がいかに病んでいることか。“いじめ”の蔓延が如実に明らかにしています。そしてその放置は、やがて確実に社会の衰退、文化の衰退、企業の衰退、経済の衰退という結果として現れてくるでしょう。

2.あまりに凄惨な“いじめ”の現実 - でもこの映画には、いじめを克服していく一縷の希望が描かれている

   この映画でも、凄惨な“いじめ”の現実が描かれています。特に、いじめを受ける本人の目からみた現実描写がリアルであるが故に、一層この映画を重いものとしています。1時間33分の上映時間が、本当に長く感じられます。しかしこの映画のテ-マは、けっしていじめの告発ではありません。すでに社会現象化しているいじめの現実を、今さらことさらに見せられても、私たちはただ辛さを覚えるだけでしょう。
   むしろこの映画が描こうとするのは、生きるために学校と家庭を逃れて家出した1人の少年が、癒され、生きる力を取り戻し、もう1度日常生活に戻っていこうとするプロセスです。
   足が悪く、人前では言葉がしゃべれない中学2年生の卓朗は、小学生の時から「かかし」とあだ名されて、かっこうのいじめの標的となってきました。卓朗は、自分の姿態や性格から、それは仕方の無いこととあきらめていました。もはやいじめられることに疑問を持つ力さえも失って、日々耐えて生きていたのです。しかしある日、同じくいじめによって苦しめられていたクラスメ-トのヤスオが、とうとう自殺してしまいます。そしてその時から、卓朗の中で何かが変わっていきます。卓朗はこれまで、自分にはいじめられる理由があると思って、いじめの状況を受け入れてきました。しかし、ヤスオは違いました。ヤスオには、いじめられる理由が無かったのです。何の理由もなくある時から突然、その全存在が否定されるようになってしまったのです。その時の気持ちが、ヤスオを思う卓郎のモノロ-グの形で、見事に表現されています。

      『あるとき、ある時間を境にして、何もかも風景が変わってしまうことってあるんです。
ふと気がつくと昨日の仲間がいなくなり、孤島みたいなところに取り残され---
       叫びながら孤島から向こうに渡ろうとしても、もうどこにも道はない。
どうしてこんなことになったのか、まわりにも本人にもわからないんです。』

   いじめには、理由は無いのです。互いを生かしあうことを忘れた社会では、ほんの些細なきっかけで、どこにでも、誰にでもいじめは突然襲い掛かってきます。そこでいじめられる者は、生きて存在すること自体が否定され、嫌悪の対象ともなっていきます。そこでは、人が人としては生きていけないのです。いじめる者も、自分の存在不安への怯えを打ち消すために、次々といじめの対象を作り出し、鬼と化していきます。この場では誰もが、人として生きてはいけません。卓郎はきっと、そのことに気がついたのだと思います。そして卓郎の中で、長らく封印してきたいのちへの執着が蘇ってきます。

    『先生、ぼくが家出をしたのは、生きなきゃいけないと思ったからです。
ぼくはヤスオのようにまだ「さよなら」を言えない。ゴ-ルが見えない。だから生きなくてはならない
と思ったんです。いじめられるのには慣れたけど、それで死ぬわけにはいかないんだ。』

   こうして卓郎は、生きるために、学校からも、家からも逃げていきます。

3.この映画が訴える1番目のメッセ-ジ 
  - 人が生きる現実は、1つではない。どうにもならなくなったら、逃げていいんだ!

    本来楽しいはずのクラスメ-トとの交流、青春を謳歌する学校生活。それが、いじめの攻撃や防御のために、人の心を傷つけたり、恐怖心を抱かせるものへと変わっていきます。家庭の中までもが、苦しみと苛立ちが増し加わって、お互いがぼろぼろに疲れていく関係でしかなくなってしまいます。そんな時、自分が生きる場がここしかないと思うと、私たちの生は本当に耐え難いものとなってしまいます。でも、自分の中に環境を変える力がないとき、また誰に訴えても力になってもらえない時、私たちは、その場所から逃げていいのです。自分を生かせる場所を見つけるために、素敵な人たちと出会うために、私たちは逃げていいのです。これは、学校に通う子供たちばかりでなく、職場に働く大人たちにも言えることかもしれません。
    もちろん無責任に逃げることや、家出をすることを奨励するものではありません。でも、ぎりぎりの困難な状況にある時、“逃げてよい”という選択肢に気づくことは、随分と私たちの心を軽くします。また現実を相対化することも出来て、その理不尽さもはっきりと見えてきます。
   こうして1つところで動かないはずの「かかし」であった卓朗が、自分を生かす道を見つけるために、逃げ出していきます。私たち大人にとって課題なのは、身動きできない現実から必死の思いで逃げ出してきた子供たちを責めることではないでしょう。このように傷ついた子供たちのために、どのような“逃げ場”を創り出していってあげられるか。これは重い課題です。
物語はここから、ちょっと現実離れしたメルヘンへと入っていきます。しかしそのメルヘンにも、子供たちが癒され、生きる力を取り戻していくためにはどのような環境が必要なのか、そのヒントが隠されているように思います。

4.この映画から読み取れる2番目のメッセ-ジ
  - 互いに傷つけず、生かしあう人間関係の中で、“癒し”と、生きる力の取り戻しの奇跡が始まる。
   
   家出して、行き倒れ状態の卓朗に救いの手をさしのべたのは、同じように学校と家から逃れた、マック、ラ-、イタヤの3人の少年たちでした。金持ちではあるが、親から別居させられているイタヤの生活費に支えられて、4人の少年たちの、社会から逃れた自由な共同生活が始まります。傷ついた人間は、人の痛みがわかります。口に出さずとも互いの痛みがわかる4人は、その痛みをかばうように、互いに慰めあい、生かしあい、やさしく生きていきます。
   こうしてメルヘンがスタ-トします。癒しと生きる力の取り戻しのサンクチュアリ-(聖域)が、この息苦しい社会の只中に、しかし人目につかない異次元のように誕生します。このサンクチュアリ-の中で、卓朗は次第に癒されていきます。互いを必要とする関係の中で、足の悪い卓朗は、生まれて始めて対等のメンバ-としてサッカ-をプレ-します。人前で話せなった卓朗が、言葉を取り戻していきます。

『変な言い方だけど、ぼくは今、上等の生活をしていると思う。友達がいて、そいつらとちゃんと喋る
ことができる。』

そして、唯一自分を心配してくれた学校の先生に出す手紙の形式で、自分の思いをノ-トに綴っていきます。こうして自分を見つめなおす作業を始める卓朗は、どんどん人間としての自分をとりもどし、自分の過ちにも気づいていきます。いじめに耐えるために、いかに自分が感性を鈍らせてきたか。しゃべれない分研ぎ澄まされた聴力によって他人の弱みを聞き知ることが、卓朗を支えるかすかな優越感となっていたが、それがいかに愚かでむなしい独りよがりであったか。母親が、過去の過ちで卓朗の足を不自由にさせたという後悔のために、自分自身を責め、どれほど悲しい苛立ちを積みましていったか。そして本当は自分は、もっと強く生きるためにいったいどう行動すべきであったのか。こうしたことに、卓朗はどんどん気づいていきます。感受性が蘇ってきます。そして次第に、生きる力と意欲を取り戻していきます。
   こうして生きる力を回復してくるにつれて、卓朗の中に、今度は、何かをやりたいという意欲が増していきます。

    『1ヵ所にじっとしているのはもういやだ。ぼくは動きたい。何かをやりたい。公園でブラブラするのも、
倉庫の窓から運河を見るのも飽きた。』

5.この映画が訴える3番目のメッセ-ジ
  -癒され、いのちを回復した子供たちが、豊かな自然の中で共に働くとき、日常生活に戻る意欲が蘇ってくる。

   卓朗たちが生きる力を取り戻し始めたとき、親の虐待から家出したミキという少女が、仲間に加わってきます。ミキの心の支えは、いつも自分をやさしくかばってくれた田舎のおばあちゃんでした。ミキは孤独な時、誰も自分を助けてくれない時、心の中に糸電話をもっておばあちゃんに話しかけてきました。こうして、大好きな、自分を守ってくれるおばあちゃんと“つながっている”ことで、ミキは絶望しないで、生き抜いてくることができました。
   このミキが仲間のみんなに提案します。『夏休みをやりに行こう』。もちろん日常から逃れ、規範の無い生活を過ごす子供たちに、夏休みは関係ありません。でも学校に生活していた時、夏休みはこの上ない解放の期間であり、再生の時でもありました。子供たちは、自分たちの再生をより確かなものとするために、夏休みをやりに行くことを決めます。こうしていのちの蘇りの聖なる夏休みがスタ-トします。向かった先は、ミキを支えた田舎のおばあちゃんの家でした。そこでのやさしいおばあちゃんと、自然の中での農作業の共働体験が、次第に卓朗に、もう1度自分が逃げ出してきた日常の生活に戻っていこうという意欲を、静かに、少しづつ取り戻させていきます。

6.この映画の鑑賞をお勧めしたい方々

 この映画は、けっしていじめ問題の処方箋を提示するものではありません。ただ1つのメルヘンの中で、いじめを越えて、生きる力を蘇らせていく可能性を示唆したにすぎません。また映画の内容も、けっして軽いものではありません。軽妙な語り口や、起伏の多いスト-リ-展開に慣れた皆さんには、ちょっとしんどい映画かもしれません。でも、そのテ-マとして訴えかけるものには、人と人との関わりを根本から捉えなおさせるものがあります。
今いじめ問題に苦しむ方々があるなら、またいじめ問題に関心のある方々があるなら、そして自分の居場所を探し求めている方々があるなら、この映画の鑑賞をお勧めします。子供たちの生きる力と希望の回復が、静かな感動と示唆を与えてくれることでしょう。
またいじめに関わらず、現代の社会においては、私たちは皆必ずどこかで心に傷を負っています。人に傷つけられ、人を傷つけて生きています。この傷を、瘡蓋(かさぶた)で覆い隠してしまうのではなく、自分の傷の痛みを、素直に認めて悲しんでください。そして他の人にもある心の傷の痛みを、共に悲しむ感受性を持ってください。こうしたやさしい感受性を有する皆さんも、この映画から大きな共感を得るものと思います。
さらに私たちが互いの痛みを癒し、生きる力を取り戻していくためには、いったいどうすれば良いのか、私たちに何ができるのか。そのことを真剣に考えている方々にも、この映画はメッセ-ジを与えることと思われます。そしてこの映画を見て、子供たちのために、いや自分を含めた大人たちのためにも、いのちの再生のためのサンクチュアリ-をこの社会の中に作り出し、押し広げていくことが出来ればと心を動かされる人が現れるなら、それは本当に意味のあることであり、この映画の真価が十分に発揮されたことになると思われます。


                                株式会社フイルムクレッセント
                                広報担当   トリ・コ-ジ